怒りの持続時間は2時間。それより怒っている人はどこか無理をしている。34

会社の喫煙所という名のオアシスで小型スピーカーを持ち込み名曲喫茶を開業していると、彼女がいつものように怒りながら入ってきた。得意先とのやりとりがうまくいかずに苛立っているのだという。実在しないユートピアに思い馳せてここが居場所ではないなどと現実逃避している僕は、仕事など感情を動かすに値するものではないと考えずにはいられないため、そんな彼女をどこか羨ましくも思った。ふだん熱く怒るということをしないが同時にどこか冷たく怒りを抱え続ける、核兵器を持った旧ソ連軍のように、いや、反抗期のお子ちゃまのように、ようするに面倒なやつでも、最近ちょっと熱く怒ることがありました。

仕事の話になってしまうのであまり詳しくは書けませんが、ようはこちらは積極的に打ち解けるために話しかけているのに、お得意様はまったく交流を図ろうとせず、同胞と盛り上がっているのです。それがプライベートなら、むしろそんな自分に魅力がないのだと自己評価を下げて終わる話なのですが、仕事においてそれをされると、なんやねん!こちとらあなたに興味があって話しかけているのではなく、仕方なくやってんねん!などと思うわけでございます。

僕が熱く怒るメカニズムとして、逆の立場だったら信じられん!と想像してしまうときに起こります。もし、僕が同胞と一緒にいて、そこに第三者が表れて、しかも名刺を差し出してきて、その状況においてなお僕は同胞と話し続けるなんてことできるわけがないだろう。と、そんな怒りは次第に相手を蔑むところまでいき、ふとすると蓋を閉じています。怒りという感情の持続時間は最長でも2時間なのです。

そしてその後に襲いかかるのは自己嫌悪でしかない。相手のことをなにも知らないくせに、相手のことを無礼者だと決め付けてしまった。もしかしたら僕はなにかとてつもなく失礼なことをしたのかもしれない。または、相手もまたなんらかの怒りを抱いているかもしれない。もしくは、相手は相手の理屈があるのかもしれない。誤解が生じているのかもしれない。その可能性がもし少しでも表出したとき、怒り狂っていた僕はそれに気づくことができたのだろうか。

あえて怒りを表現して伝えたいことを伝えるという手法もあると思う。しかし、このときに抱いた怒りは、自分の思い通りにならなくてわめいているに過ぎないものだった。自分の感情のあらゆる責任は、すべて自分にある。幸せを感じるのも、寂しさを感じるのも、ある事象を自分はどの角度から見るのか、また、それをどう認識するか、すべてそれ次第なのである。しかし怒りという感情はそんな周知の事実をも忘れさせるのだから恐ろしい。

そして、僕はまぎれもなく人間であると、どこか安心した。