山陰をめぐる旅(2)。足立美術館。作為むきだしの庭園。39

鳥取カプセルホテルで目覚める、二日酔いだ。チェックアウト間際に眼鏡を無くしたことに気づく。大阪で浪速を感じながら奮発して購入した3万円のもの。最悪の気分でダメ元でフロントに聞いてみるとロビーに落ちていたとのこと。そういえば昨夜、ホテルに戻るなり目の前にあったソファで寝た気がする。そのとき眼鏡をかけながら眼鏡を探す人のように自意識を嘔吐していた。うつ伏せの圧力でひん曲がっている。もう二度としてこのような失敗はしないのだと永遠に繰り返される無意味な誓いをしながらアクエリアスを一気飲みする。

鳥取はもう境港くらいしか興味がないがスケジュールの都合で島根県安来市までスーパーまつかぜ山陰本線から日本海を望む。だが、そのほとんどは睡眠により覚えていない。ゆいいつ印象に残っているのは、このへんの方は他の乗客の隣に意地でも座らないということ。特急にもかかわらず立っている人がちらほら。人見知りなのだろうか。

安来駅からバスに乗り、今回の旅の最大の目的地である足立美術館へ。横山大観の作品で有名だが私の関心は日本庭園にある。ここの庭園はアメリカの日本庭園冊子「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」で17年連続一位に選出されている。隅々まで味わい尽くし幸福に満たされた。庭園の詳細は下記記事にまとめられているので興味のある方はお読みください。

https://www.kankou-shimane.com/pickup/2901.html

庭園内にとどまらず、たとえば借景(庭園外の山や森林などの自然物等を庭園内の風景に背景として取り込むことで、前景の庭園と背景となる借景とを一体化させて景観を形成する手法)の滝は人工で作られておりポンプで汲み上げている。こういった神経質とも呼べるまでの異常なほどの作為が凝縮されている。庭園というと「自然豊か」と思うかもしれないが、どの庭園においてもその自然とは無垢な自然ではなく、すべて人間の作為により創り上げられているものだ。なぜなら庭園における自然(主に植物)そのものは変わりゆくものであり、美を目指すならば常にメンテナンスを怠ってはならないから。「自然と作為の調和」が日本庭園の目指すべきものだとするならば、この庭園は作為がむきだしとなっており邪道なのかもしれない。しかし僕には性に合う。映画でいうならばスタンリー・キューブリック監督である。

僕はこのときに感じた感動をいつまでも忘れないだろう。そして、この感動はこれから僕が物を作るうえで、もっと言うならば日々の生活において、なにかしらの影響を与え続けることから避けられない。ここに来られただけでも今回の旅費は決して高くなかったと思うことができた。

その後、松江まで。鳥取と同様にここもまた人がいない。もうお酒は飲みたくなかったが、地元の方と話すには飲むしかない。ミュージックバーに行く。思いのほか会話が弾ますに2杯ほど飲んで退店。松江駅近辺にただ一つしかない漫画喫茶に宿泊する。カラオケやダーツなどの遊び場もここしかないので騒がしい。異様なほど混雑している。情報格差。東京であたりまえだと思っていたことも大阪ではそうではなかったように、過疎地域では想像すらすることができない。