普通の人として生きることへの恐怖、11

 

僕のいままでの行動のすべては反抗心からきた。

 

中学生以前から周囲に馴染めずにいた僕がその場しのぎでとった策は、

有名で偉大な人は変人が多いと、なんかのテレビで見たのを信じて実演してみせたことだった。

変人と呼ばれることは、理解を放棄されているようで悲しくもあったが同時に、この世界にたしかに自分が存在していることを意識させてくれた。

 

高校生になるとそれはさらにエスカレートした。校則や先生への反発である。

書き留めるのができないほどに毎日のように怒られ、それでも煽っていたりした。

今思うと、最高にエキサイティングだったと思う。無知だったけど。

 

大学生になると目の前から反抗する相手はいなくなった。そんなことは、高校生のときからわかっていた。

しかし僕はまた相手を探した。そしてその矛先として、いくつものアルバイトを仕事を覚えては辞めていった。

直接怒られてはないけれど、ある種の社会への反抗心が動機に含まれていたのだと思う。

 

そしていよいよ社会人になる。ここはいままでの反発がすべて受け入れられてしまうような環境だ。それに物足りなさを感じやしないかと不安で、同時に、こんな人生が楽しいのかと不安に思う。

さいわいなことに運命の人と出会えたことは前回の記事に書いた。たしかに彼女以上の人など存在しない、しかし一生をともに過ごしていくことがお互いの人生を豊かなものにしていくかは、確証が持てない。

 

確証なんてものは、すべてのものにおいて存在しない。そんなことはわかってる。だけど、ちょっとくらいは。

 

また話は変わるけど、いつの日か、彼女が、彼女自身をも望まない浮気をするかもしれない。そのとき、僕はどれだけ哀しみに暮れるのだろうか。

 

僕は、社会人になってもいままでのように友達ができずに孤独なのだろうか。

 

そんなこともわかってるんだ。僕は、どんなに周りに恵まれても、結局は孤独に生きていくのだろう。

 

そしてそれが「普通」に生きる、ということであることも、わかっている。