永遠に完成しない庭園、15
先週末、お昼過ぎに休日出勤を終えてそのまま家に帰るのが億劫で、なんとなく京都に行ってみことにした。
家にこもって読書でもして、散財しないように思っていたのだけど、早く起きられたらいいな程度のアラームでは二度寝するように覚悟のない願望は目先の欲求に負けるに決まっている。
鴨川沿いに等間隔で点在するカップルをよそめに当たり前のように一人でいることを寂しく思いながら鴨川デルタ、そして真っ暗な住宅街を抜けて元田中というところへ。
ふらりと入ったバーで「無鄰菴」という庭園を教えてもらい、早速行ってきました。
長州藩士の山縣有朋の別荘であり1896年に完成。日露戦争開戦前の1903年に山縣、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎で無鄰菴会議が行われたのは、この庭園の洋館2階である。
当時の山縣は多忙であり別荘を作ったものの仕事に追われていた。しかし少しの時間を見つけては度々訪れたという。
日本庭園には造園手法のひとつに「借景」というものがある。
かんたんにいうと庭園外の景観を庭園内の風景として考慮するというものであり、無鄰菴では東に望む東山が大きな意味を持っている。
むしろ、山縣は「この庭園の主山というは喃、此前に青く聳える東山である」とまで言っており、東山は借景にとどまらず主山とまでなっている。
この庭園は東山を見るための庭園、と言える。。
借景は庭園外の風景ありきであり、しかし敷地外はお構いなしに変化し続ける。
京都は幸いなことに高層ビルが建つことはなかったが道路や電線は生まれ、庭園から見えてしまう時代もあった。
しかし山縣の意向を汲み続ける庭師たちは景観を守り続ける。いや、むしろ現状維持ではなく変わりゆく時代、自然に巧みに対応し、頭を使い続ける。
伸びきったもみの木は主山である東山を隠してしまうが、しかし幹の間からは道路が見えてしまう。そういった次々と生まれてくる問題を庭師たちは日々解決していく。
当時山縣は苔を嫌い芝を好んでいた。しかし造営からしばらくし苔が繁殖してしまうと、今度はそこに美を見出し始める。
今では、芝と苔が共存した庭園となっている。
当初の理想に固執することなく想定外のことを受け入れ、そこに価値を見出す。このドキュメント的な姿勢もまた、今の庭師たちに受け継がれている。
植物を熟知した庭師たちは繁殖力の強く景観を乱すものは春のうちに母体数を減らし、夏からは芝に入れないので放置。山縣の意思を汲み判断し、手作業で作業ひとつひとつを行う。
自然が移り行く限り、今をより良くするにはどうしたら良いかを考え続け、庭園もまた変わり続けている。
それは進化なのかはわからない。しかし確実に言えることは、「変わり続けている」ということである。
自然に見える景色は、すべて作為的に設計されている。その作為ひとつひとつには思考があり、魂があり、しかしそれらを悟られないような作為もまた存在する。
自然をも作為で生み出している。しかし自然なくして作為は存在しない。自然と作為には優劣はなく、互いが互いを補完し合っている。
僕の自意識についても、こうでありたいと思った。