なぜ記録するのか、20

 

亡くなった父方の祖父母は、お墓には入れずに永代供養をした。

そして先日、それより前の先祖たちのお墓の墓じまいをし、長く眠っていたぼろぼろになった遺骨を毛呂山に散骨した。

 

父方の先祖は、具体を失った。

 

これらを決め、実行したのは、僕の父親である。

 

父親のことをあまり知らない。

親子仲は悪くはないけれど、僕が組織というものが苦手でそれは親族においても同様であり、あまりコミュニケーションを取ってこなかった。

大人になるにつれて、父親とはどこか通ずるものがあるとわかってきて、だからこそより会話する必要がなくなった。

 

だから、父親がなぜこの選択をしたのかがわかるような気がする。わかった気になっている。

そして、その合理性や慈悲心の尺度に共感した。そんな気になっている。

 

人はいつ亡くなるかわからない。

韓国のアーティストが来日した際に仕事をご一緒したが、その一週間後、亡くなったと報道された。

こういうことは今まで何度か経験してきたことで、その事実を知った気になっているが、本当の意味では知らない。

長く付き合いのある友人が過去に愛しき人を失ったと聞いても、その事実を追体験することはできない。

ホロコーストも、地下鉄サリン事件も、東日本大震災も、知っているようでなにも知らない。そして知ることは二度とあり得ない。

 

それでも、いつまでも知ろうとし続けなければならない。

そうでなくては、歴史とは、そのときに一生懸命に生きてきた人たちの魂や、その時間とは、どうなってしまうのか。

なかったことになるのではないか。

 

 

数年前、僕個人の都合で母方の祖父母の養子になった。ようするに父方の歴史を切り捨てた。

これがどんなことなのか、なにを意味するのか。みずから計画した身であってもわかっているようでわかっていない。

 

父方の先祖の築いてきた歴史は今後、だれが語り継いでいくのだろうか。

私の姉も、いとこたちも、だれもそのことに意識を向けていないのではないか。

 

父方の苗字を捨てた身で恐縮ですが、僕しかいないのではないだろうか。

 

人はいつ亡くなるかわからない。

生きてきた歴史を、残さなくてはならない。

 

だけど僕にできるのは、せいぜい記録することだけである。

 

実家に戻ったら、父親と向き合おうと思う。

 

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