無思考の言葉遣い、21

 

「~ますでしょうか?」と、目に、耳に、入ってくる。

 

なんとなく丁寧に見える・聞こえる言葉を、疑う余地もなく使っているのだと思う。しかしこれは「ます」「です」の二重敬語となっているため、正しい文法ではない。それでも普及されてしまえばそれが正しい言葉になるとの反論も聞こえそうだが、そう反論をする人は決まって文法的に誤りがあることを知らない人だろう。

 

はっきりと間違っているならまだしも、グレーゾーンなものは完全には否定できない。そこには個人の尺度や美学がある。

 

「~させていただきました」

相手に許可をもらうことで初めて使える言葉だ。先方の会議などに「参加させていただく」は正しい場合が多いだろうが、「メールを送らせていただく」は許可を得ているとまでは言えない場合が多く誤用だと思う。

それでも使用するのはその多くは言葉の意味を知らないからであろうが、無意識に頻用してしまう理由があるとすればそれは、あらゆる自分の言動は(ときにそれは実態のない)相手の許可のもとにあるという意識であり、ようするにへりくだっているつもりなのだろう。

 

しかしへりくだることはときに相手に対して失礼にもなりうる。

その代表的なものが「つまらないものですが」だ。つまらないものならば、差し上げなければいいだろう。この言葉の起源の「武士道」を熟知しているのならばいいが、それを知らずして形骸化された言葉として使われることが多いと感じる。

 

約1年半、この一流企業で働いていても、上記の誤った言葉遣いを決して使わない人はほとんどいない。なぜ、言葉を大切にしないのだろうか。

おそらく言葉というものが自己表現になりうることを知らないのだと思う。たとえそれが誤ったものであっても、それがマジョリティであるならばたんに意思疎通するうえでは不便はない。

しかしマジョリティを疑うことを知らないとそれは暴走する。それは様々な歴史が十分すぎるほど物語っている。だから自分でひとつひとつの価値判断をしていかなければならない。ときに、個として集団に立ち向かわなくてはならない。

 

マジョリティを否定はしない。人間は発達の歴史において群れることを選択してきた。だがそれにしても、物事の本質を見定められる人が極端に少ないと感じる。

その理由として日本のマスメディアの在り方が一つの大きな要因として挙げられると思うが、話が長くなるのでまた後日。

 

マウリツィオ・ポリーニは「イマジネーションが貧弱だと思います。クラシックの方が聞いていて面白いのに、どうして若い人たちは好きでないのでしょうかね」と言った。

それくらい言いきれたら、どれだけ気持ちがいいだろう。

 

f:id:syknid:20191128180332j:plain