長崎トルコライスに思い馳せる、23

 

長崎を訪れたのが2年も前のこととなってしまったことに気づき、時間の流れの早さになおのこと焦燥感を駆られる。あれから僕はなにを学び、どう成長したのだろうか。無為に日々を過ごしていないだろうか。

 

訪れたのはドキュメンタリー映画の撮影のためだった。長崎県の離島であり九州の最西端である五島列島を目指して旅をするというもの。映画内では動機を説明できずに中途半端なものとなってしまったことを反省しているが、”どこか遠くに行きたい”というその一心だった。

目的地を五島列島にしてから行程を決めるために様々なことを入念に調べた。すると長崎県が、昔から行きたかった場所のように思えてきた。愛おしく思えてきた。しかし映画撮影中は自由時間がほとんどなかったので満喫することはできなかった。

 

ずっと頭の片隅にあった”トルコライス”。長崎で味わいたかったもののひとつである。

ピラフ・ナポリタン・とんかつ・カレーなどがひとつの大皿に乗せられた長崎のB級グルメ。トルコライスという名前だが、トルコはイスラム教なので豚肉は食べない。これに似た料理があるわけでもない。起源は諸説あるが、トルコと直接の関係は少なくともないと思われる。名称だけが形骸化した謎の料理。

この起源の不明瞭さと、それ単体で成立する料理を一緒くたんにする炭水化物のオンパレードにどこかロマンを感じており、ずっと食べてみたいと思っていた。そして大阪でトルコライスを食べられるお店があると知り、いってきた。

 

しかしそこに乗せられていたのは、ドライカレー・オムレツ・デミグラスソース・タルタルのかかったエビフライであった。なんだこれはと思い調べてみると、関西には長崎のそれとはまったく異なる「関西トルコライス」なるものがあるらしい。イメージしていたものにかすりもしないものが出てきてショックを受けた。

しかし、これもまた”トルコライス”のひとつなのだと認めることにした。きちんとした定義がなにひとつされていないからこそ、多様なバリエーションがある。だからこそ面白い。寛容にならなければならない、ひとつの皿にすべてを受け入れるトルコライスのように。

 

それでも、博愛主義を肯定しながらも本当に愛すべき人は一人しかいないのだと信じる僕は、頭の中に思い描くトルコライスと出逢えることを求めている。

 

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