モー娘。以降のアイドルシーンにおけるドキュメント的演出、28

この文章もまた、社内向けに書いたものである。

 

かつて僕が好青年だった頃、母親が用意したお弁当にある唐揚げを食べて「冷凍食品おいしい」とは思わなかった。僕が美味しくいただいていたのは、鶏肉を揚げたであろう茶色の物体なのであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 

アイドルとは辞書で引くと「偶像」という意味であるが、芸能のジャンルで言うならばそれは一つの形式に過ぎず作品の本質を指すものではない。ジャンル分けというのは時代とともに複雑化している。

 もっとも、たとえば「アニメ」に関して、実写との区分は何なのだろうか?セル画が使われていればアニメなのか?リアルのカメラが使われていたら実写なのか?特殊撮影は?合成は?モーションキャプチャーは?それらを混合させた作品はどうなる?など、疑問が尽きない。

ジャンル分けは次第に意味を為さなくなるだろう。いや、もはやそんな時代になっていると思う。明確に分けることなどもはや不可能であり、それは都合よく認識しやすくするための言葉遊びである。(ただ、都合よく認識することも物事を語るうえでまた必要である。)

ーーーというスタンスを持つことが、作品の本質を見極めるうえで不可欠だと思うこと、第一に述べておきたい。

 

“アイドル”の起源を調べてみると1940年代にフランク・シナトラが呼ばれたところから始まるようだ。

f:id:syknid:20191220133540j:plain
My Way (Remastered 2008)

https://www.youtube.com/watch?v=qQzdAsjWGPg

↑シナトラ最も有名な楽曲。

 

歌手活動のみでなく、歌唱面で見込まれてミュージカル映画にも出演している。

 

踊る大紐育 (原題:On The Town、1949年)

New York, New York - On the Town

https://www.youtube.com/watch?v=x7CIgWZTdgw

↑MGMの巨匠であるジーンケリーと多数共演している。

 

エンターテイナーとしての名声を博し、第二次世界大戦で男性が徴兵されていた時代、アメリカの女性たちからアイドル的な支持をされた。確かにアイドルと言われたらそうかもしれないが、それ以前にエンターテイナーであり、それ以前に、シナトラはシナトラでしかない、と思う。

僕が考えるに、かつてアイドルとは、なろうと思ってなるものではなく気づけば勝手になっていたものだ。上記のシナトラはもちろん、日本だと山口百恵は、松田聖子は、アイドルと呼ばれるようになるがそれ以前に歌手であり、それ以前に山口百恵であり、松田聖子である。モーニング娘。の発足時の5人は「シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディション」の最終選考落選者であり、アイドルになろうとした人たちではなく、次第にアイドルと呼ばれるようになった。

日本のアイドルシーンにおいて、オーディションから記録し続けたモーニング娘。が“アイドル”の定義を大きく変えたと考える。それ以前は先に記述したとおりだが、以降においては「ドキュメント的な演出」が主流となる。ドキュメント的な演出とは、アイドルのような存在をアイドルと呼ばせるまでの(意図しないものを含む)仕掛けである。オーディションやバラエティ番組、ブログやSNS、ドキュメンタリー作品において、終わりなき成長過程を記録していく。

 

モーニング娘。 11期メンバー『スッピン歌姫』オーディション

f:id:syknid:20191220133522j:plain

モーニング娘。 小田さくら 合格までの軌跡 1/2 20120927 [HD 1080p]

https://www.youtube.com/watch?v=jNvxMbx1-FQ

 

2012年9月、モーニング娘。の11期オーディションが開催された。モー娘。は『ASAYAN』から始まりオーディション風景を映像に収めてテレビ番組で放送するというお決まりがある。2012年9月27日放送の『ハロー!SATOYAMAライフ』では、当オーディション唯一の合格者である小田さくらにフォーカスし放送された。スマイレージ2期オーディションの最終選考落の悔し涙から始まり、自分と奮闘しながら人間的な成長を遂げるさまを描く。

この映像の素晴らしいところは、最終審査の表題曲『Be Alive』の小田さくらの歌唱のパワーを存分に信じ切ったところにある。ハロプロ研修生を経て自信を付けたという事実を、言葉のみならずパフォーマンスをもって表現できているのである。これは、誰にでもできる技ではない。苦闘するさまを見て、成長を見て、感情移入させる。ドキュメンタリーと聞いて多くの人がイメージするようなシンプルなドキュメント的演出である。

 

ところが、ドキュメント的演出はさらなる次元へと向かう。

ドキュメンタリーとは本来、ある事象を記録することが目的にある。しかしドキュメンタリーがエンタメ業界に飽和してもなお発展を飽き足らなかった結果、ときにドキュメンタリーを作ることそのものが目的となるケースもある。そうして本来記録すべき事象が不在の、“システム”の中でドラマを生ませるドキュメンタリーが誕生した。

システムの中で奮闘するアイドルのような存在と、そこに価値を見出す消費者たち。いつしか、モー娘。のように技量のある人でなくても良い、ドキュメント的演出に向いていれば「誰でもアイドルになれる」とまで言われるようになった。そうしたシステム=虚構の中のドキュメンタリーとは、真実なのだろうか。

※映画やドラマ、報道、バラエティ番組においてたとえると分かりやすい。それらはすべて「カメラがなかったら存在し得ない世界」を記録したものなのである。

 

AKB48選抜総選挙

f:id:syknid:20191220133543j:plain

 

AKB48はシングルの表題曲の歌唱メンバーをファン投票により決定する「選抜総選挙」というものが毎年開催されている。このシステムそのものが「システムの中で奮闘するアイドルとファン」という構造になっている。

一見、シンプルなドキュメンタリーに思われるが、このシステムを構築するドキュメント的な演出が存在しなければ存在し得ないものなのであり、本来のドキュメンタリーの持つ意味とは大きく異なる。不正投票どうこうという意味ではなく、製作者からするとドキュメントを無理やり作るという意味で「やらせ」であり、しかしその中に確かな価値を見出そうとアイドルとファンはそのシステムの一部となる。

第9回AKB48選抜総選挙で、5位となった荻野由佳さんは「私は、『努力は必ず報われる』を、いま証明できていますか?」とスピーチする。『努力は必ず報われる』とは、第3回選抜総選挙高橋みなみがスピーチした内容であり、この時点では表舞台に立つ人間が「努力」と言語化し、それを商売にしていることへの自覚を持っていること、に対する違和感だけであった。しかし荻野由佳が「努力が(システムにおける)順位に結びついている」といった意味合いを含ませていたため、ドキュメント的演出は年々多重構造になっていることを感じた。

 

WACKオーディション

f:id:syknid:20191220133527j:plain

 

WACKとはBiS、BiSH、GANG PARADEEMPiREなどが所属する音楽プロダクションである。毎年合宿型のオーディションを行っているが、ここにもまたシステムの中のドキュメント的演出が顕著に見える。

第一に、合宿の模様をすべてニコ生で中継している。これで合宿そのものがエンタメとなる。いや、むしろ「合宿をせっかくだからエンタメにしよう」ではなく、「エンタメを作るために合宿しよう」のノリであることは間違いないだろう。

合宿では歌唱やダンスなどアイドルになるうえで不可欠なスキルの向上はもちろん、スタッフ・視聴者投票、朝のマラソンの順位、食事(ハバネロ入り)などもまた審査の対象となる。いったい、ハバネロを大量に食べておなかを壊すことが何になるというのか。それでもなお、みずから積極的にもがき苦しみ、命を削り、そこに他者から「本気」を見出させなければならない状況が完成してしまっているのである。

 

これらのドキュメント的演出はアイドルシーンのみならず、恋愛リアリティショーにも踏襲されている。

f:id:syknid:20191220133518j:plain

AbemaTV「恋愛ドラマな恋がしたい3」

 

日本は帰属意識が高いため、いつしか自分の存在そのものもシステムの内側にいることを忘れやすいのかもしれない。だからカメラの前で本気の恋愛ができてしまうのである。(無自覚のうちにカメラの求めることを演じている、という側面もあるだろう)

 

ここまで、システムを倦厭しているような文章を書いたが、僕はシステムを圧倒的に愛している。僕が熱狂的にドハマリしているサウナの世界は、各設備の役割が決まっており、「ととのう」までの道筋が決められており、非常にシステマチックに作られている。

 

f:id:syknid:20191220133531j:plain

池袋 TimesSPA RESTA 男性フィンランドサウナ(90度程度)

 

f:id:syknid:20191220133535j:plain

同・水風呂(15度)

 

これは、素晴らしきデザイナーが、またはサウナを愛するオーナーが、頭を練って作り上げた自慢のシステムであろう。しかしその内側で「ととのう」のは、まぎれもなく僕でしかない。そのときの快楽は、まぎれもなく僕のものでしかない。

システム(虚構)の中で奮闘するアイドル=「偶像」たちに価値を見出すのもまた、その当事者でしかないのであり、見出した価値はどんなものであれまぎれもなく真実であろう。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。