立ち食い蕎麦を食べても幸せにはなれない。33

立ち食い蕎麦。入店と同時に「かけそば一つ」と叫ぶ。あるときはコートを羽織りリュックを背負いながら、あるときはウォーターサーバーの前でコップ一杯の水を飲み干し汗だくのおっさんたちと、まるでタイムトライアルをに挑戦しているかのように勢いよく口の中にかき込む。ちょっと贅沢したいときは月見にする。まずは素の部分を味わい満を持して卵と掛け合わせる。またはコロッケを入れる。つゆを吸収したそれは同時にまわりに油の出汁を出す。「ごちそうさま」の声を出すのは、胃袋の中にあるそれはまるで実体のない幻想であるかのように、地球の歴史における青春の一ページのように、女心と秋の空のように、刹那を感じながら店を出るとき。

そんな寂寥感のなかに陰をひそめる幸せに気づくことができるか。それはまるで人生そのもの。幸せな人と不幸せな人の違いは、人種でも場所でも富でも名声でもない。自分の内に幸せを見出すことができるかどうかだ。不幸せぶっている人は周りのせいにする。またはみずからを否定する。そのどちらも幸せになるには程遠い行為であることを知らない。不の循環に陥る。いつまでもここから脱却できないのではないかと信じて止まない。

自称不幸者に大声で言いたい。幸せを恐れてはならない。きっと無理に見いだせなくとも幸せを獲得するチャンスは訪れている。そのときに何かと理由を付けて、言い訳を見つけて、拒絶しているのはまぎれもなく誰よりも幸せを望んでいる自分である。ショーペン・ハウアーは言った。陽気であることをためらってはならない。浅野いにおは言った。幸せとは恒久的なものではなく瞬間である。幸せになりたいのなら、幸せを受け入れればいいだけの話なのに、なぜそんな簡単なことがここまで難しいのだろう。

立ち食い蕎麦を食べれば解決する。しかし夢のような瞬間はあっという間に現実と化す。その間、わずか3~5分。もし夢のような現実であったのならどれだけ楽だろう。いや、決して夢と現実の違いなんて大してないのに、どうしても今を現実だと信じ込んでいる僕たちはまた、それと対局にある夢を幸せなものだと信じ込んでいる。だとしたら現実を夢にしてしまえばいいのかもしれない。もうなにがなんだか分からない。申し訳ありませんでした。ただ一つ言えること、それは立ち食い蕎麦を食べてもなにも解決しないということ。そんなものに頼っているようでは、とうてい幸せにはなれない。